toggle
2022-01-08

迷走する心と身体の死に場所。

2021年に、私の心に深く突き刺さった言葉がある。

”健康は全てではない。
だが、健康を失うと全てを失う。

最近よく耳にする「言語化」というボキャブラリー。私が残りの人生を賭けて取り組みたいテーマを、これほどまでに簡潔に、切れ味よく言い現した言葉はない。

「健康」という耳障りは、なんだか年寄り向けの印象を与えてしまうし、あまりに普遍的、一般的すぎて別にクールでも何でもない。ただ、だからこそそこに「スポットライト」を当て続ける必要がある。その使命を、知らず知らずのうちに少しづづ、背負ってきた人生だったんだと40にして腹落ちした。

いつからこんな荷物を背負い始めたのか。あらためて思い返すと、二十歳前後に継続的に複数回疾患を経験し、病室のベッドで少なからず「死」というものを意識した原体験にあることに気がついた。継続性のそれは致死率が1%程度であるが、青かった私はその後の人生に広がった輝かしい未来が、一瞬にして暗転していく絶望を一瞬ではあるが味わっている。

そんなマインドセットのせいもあってか、20年近く運動習慣としてランニングを愉しみ、今ではその「走る」という行為の先入観やカルチャーを変え、世界中に楽しくランニングをする人を増やすことを志向するスタートアップをやっているのだから、人生は本当に気まぐれだとつくづく感じる。

テクノロジーの革新による”健康”の未来

ここで、ざっくり向こう10年でテクノロジーが私たちの「健康」にどのような進化をもたらすのか、おさらいしておきたい。当然これからのことなのでディティールやタイムラインは正確に予測できないものの、大筋こんな未来が私たちの生活で当たり前になるのはほぼ規定路線だろう。

・・・

まず病院に行って診断してもらう前に、あらゆるセンサーで計測されたデータとAIを駆使した分析によって自らの健康状態を正確に把握し、病気の早期発見や予防を行うことがより簡単になる。ここで言うセンサーとは、身体へ着装するリングや埋め込むチップ、また日用品としての歯ブラシやトイレやベッドなど、あらゆる身近な物が想定される。

並行して遺伝子レベルでの解析も進み、医療行為の圧倒的パーソナライズ化が進む。従来のひどく一般化された症状と処方箋から、遺伝子レベルでのパーソナライズされた診断と対処・予防へ医療の質が圧倒的に向上する。

また、各種医薬品も当然大きな進化を遂げる。既存の改善はもちろん、さまざまな新薬の登場によって治療方法がゼロだった病気に関しても多くの解決策が登場する。直近の身近なところでは、パンデミックを誘発する新型感染症への特効薬の開発とローンチスピードが圧倒的に改善される。

・・・

以上を抽象度を上げてサマリするのであれば「ヘルスケアの自動化」と言えるのではないだろうか。病院に行かずともより正確に自らの身体の状態、症状の詳細や原因がセンシング(計測)データと綜合分析によって勝手に特定され、その段階では既に何らかの対応策がサジェストされているか、ピンポイントの投薬が既に実行されている。つまり、自動車のそれと同じく、生きていく上でのヘルスケアに向き合う我々自身の身体も、自動化されていくのである。

ただし、この「ヘルスケアの自動化」というコンテキストには重要な2つの観点が抜け落ちている。正確に言えば、前述したストーリーのハイライトが強烈すぎて、他の重要な観点が抜け落ちがちになる。その2点を、ここで少しばかり深めていきたいと思う。

コロナが晒した「心」の脆さ

人は目に「見えるもの」に依存傾向がある。それは明確な輪郭と実体を持っており、何より分かりやすく説明しやすいからだ。例えば新型コロナウィルスの脅威を語る時、それは多くの場合「数字」となる。新規感染者数、累計感染者数、重症化率などなど。

その分かりやすい数字の裏で、多くの人がこのパンデミックにより「心」を崩している。「心」の崩れは時に自覚されることもなければ、周囲から気づかれることもない。また、定量的に現れるのは事後的であり、示された結論の因果として「心」が紐付けされないことも多い。つまり、「心」に起因するものは現代科学の論理的な積み上げと進化の軌跡と比べると、ひどく難解であり煩わしいほど曖昧な対象物となっている。

ここで今一度はっきりさせておきたいのが、本来「心と身体」は繋がっており、かつそれは”一方通行”ではないということ。「心と身体」は、常に密結合・密連携しながらひとりの人体・人格を形作っている。時にこれらは科学ではないかもしれないが、関連する言論は多く見つけることができるし、何より40年の「ヒトとしてのユーザー体験」で確信を持って言える。心と身体は、常に二人三脚なのである。先に心が不調になり、後に身体に現れるこもとあるし、身体を動かすことによって、落ち込んだ心を浮上させることができることもある。

新型コロナウィルスが教えてくれたことは、未知のウィルスによる感染症の脅威に正面から真摯に立ち向かうべきである人類への警鐘と、ヒトとして本当に大切な「心身」の充足を蔑ろにしてはいけないという2点に尽きる。

例えば、昨今の日本におけるサウナブームの根底には「心の疲弊に対する癒しの渇望」という広いテーマが広がっていると思う。一部のオジさんだけの愉しみだったサウナが、若い女性にまで広がっていることは、ある程度クール化された”SAUNA”というマーケティング以上に、根深い社会問題が横たわっていると見ている。

人としての「楽しさ」は何処へ

そしてもう1点、「ヘルスケアの自動化」において語らなければならないことがある。そもそも「ヘルスケア」と括っている多くは、従来は「シック(病気)ケア」の比率が大きい。特に日本においては保険制度の充実もあって、病気になったから病院へ行く。つまり事後対応の世界である。最近では「未病(みびょう)」というボキャブラリーとマーケティングによって普段の生活習慣、食生活や運動生活を改善して事前に病気にならない身体を作ることが、ある程度市民権を持ってきたとも言える。物質的に豊かになり、バブルに向かって24時間タバコをふかしながら仕事に向き合っていた時代は、もうとうの昔に過ぎ去っていった。

当然、テクノロジーの進化は「シックケア」だけでなく「ヘルスケア」をカバーする。先に述べたデータ活用、ゲノム解析による予見的、個別化されたサジェストや事前処置は「未病」を大いに促進してくれることを期待している。ただし、人の行動を変えるのは本当に難しい。人は「論理」の動物でありながら、多くの場合「情理」がそれを上回る。

あなたの現状の生活習慣では血糖値が高まり続け、遺伝的傾向からも2年以内に糖尿病になる確率が30%です

とサジェストされた人の一体何%が、実際に生活習慣を見直し、行動を変え、しかもそれを継続できるだろうか。この「行動」と「継続」こそ、今の「ヘルスケアの自動化」に抜け落ちがちなキーファクターだ。繰り返しになるが、ヒトは元来目に見えないものに頼れない、近視眼的で弱い生き物。「心」の重要性に確信が持てない上に、顕在化していない未知の疾患リスクに対して事前に行動を起こし、まして自らを律して継続することはもっと難しい。

当然、膨大なデータとAIによってサジェストされる運動メニューや食事メニューの精度は高まり続けるだろう。ただし、ヒトは機械ではないのだ。どんなにサジェストされるものが「理論上正しい」としても、ヒトとしての重要なセンス(感覚)が無いと一時期行動は起こせても、継続させるのは難しい。

そして、そのセンスこそ「楽しさ」なのだと思う。

どんなに便利に、どんなに正確に、どんなに強制的に「未病」のための行動を促されても、「楽しさ」がなければきっと継続しない。はっきり言って、「楽しさ」はテクノロジーの苦手な分野である。テクノロジーはあまりに”手段的”であり、実際その手段を使って「楽しさ」を作るのは、人々のクリエイティビティなのだ。だからこの手のテクノロジーによる「ヘルスケアの自動化」では「楽しさ」の重要性が語られることがない。

「心」と「楽しさ」。

この2つを持って、はじめて「人間らしい未来のヘルスケア」への道が見えてくる。

「心」の救い方。

そいういうわけで、今は「楽しさ」に関して「ラントリップ / Runtrip, Inc.」というスタートアップを通じて「ランニング」という手段における最上位概念として向き合っている。日本だけでも1000万人以上、毎年何らかの形で自らの生活に取り入れるランニング・ジョギングという身体活動の「ヘルスケア」へ与えるインパクトは、潜在的にもっと大きいと感じている。そして、より多くの人がそれを挫折せず、生涯に渡って継続し続けていくためには、何より「楽しさ」が無ければならない。

一方で、私なりの「心」の救い方に関してはよりオープンスタンスで構えている。

「心」つまりメンタルヘルスも、当然社会において蔑ろにされているわけではなく、むしろパンデミックによりその重要性へのハイライトと様々な治療法、解決方法が改善を積み重ねている。これも事前と事後、予防と対処で大別できるし、方法論を網羅しようと思えばキリがない。

そこで優れた棋士のように、無数の選択肢の中からフォーカスされた領域へ私の興味関心も含めてハイライトすると、キーワードは先ほども触れた「心と身体」であり、相互に作用し合う両者の方向性としては「心←身体」である。

つまり、心が危うくなる前に身体を動かす。日常的な運動習慣を持つことにフォーカスを当てたい。当然、それは「楽しさ」を伴うものでなければならない。そうでなければ続かないし、人が人であるために、自動化されたヘルスケアによって機械になってはならない。

当然、手段としての「ランニング」はここにおいても有力候補だ。ただ、万人が一義的な運動に縛られる必要は決して無い。何らかの形で「心身の健康」を求める相談に対しても、私としては本人が本当に楽しめる最適な方法論があるはずだと思っている。

ランニング、筋力トレーニング、ヨガ、マーシャルアーツ(格闘技)…

できれば「相手」を必要としない、自らの身体と心に「連続的な身体活動」を伴って向き合うものが良い。マーシャルアーツといえば、稀代のムービースターであり、本物の格闘家であり哲学者でもあったブルース・リーは、彼が最終的に辿り着いた自らの武道様式であり哲学の截拳道(ジークンドー)を説明する際に、こんなコメントを残している。

”ナイフを抜く男は不利な立場にある。なぜなら彼の意識はその唯一の武器を使うことに限定される。一方あなたの意識は自分の手、足、肘、頭…全ての武器について考えられる。”

心を(身体によって)救いたいなら、特定のフォームやムーブに縛れる必要は究極無い。走る気分が乗らなければダンベルトレーニングでもいい。腹筋運動を繰り返すよりも、見えない何かを吹き飛ばしたいならシャドーボクシングでもいい。じっくりゆっくり身体と心と向き合いたい時は、ヨガでもいい。頭のモヤモヤを吹き飛ばしたいなら、少しでいいから外の新鮮な空気を吸い込んで1mでも10mでもめいいっぱいダッシュしてみればいい。

心と身体は繋がっている。心は身体を支配しているし、一方で身体も心を支配している。それでいて、どちらもお互いを完全に支配しきれていない。そんな絶妙なバランスの上に成り立っている心と身体に、私は「まず身体を動かしてみる」「特定の何かに縛られず、その時の”心”に従って身体を動かす」ことを強くお勧めしたい。

例として挙げた、相手を必要とせずいつでもどこでも実施できるこれら一連の「身体活動」には、もう一つ需要な共通点があるのだが、これはまた別の機会に語ることにしたい。私もまだ、これからの人類が直面する圧倒的テクノロジーの恩恵と正しく共存した先の「本当のヘルスケア」を探求する旅路の途中だ。

パンデミックによって世界中で迷走する心と身体の「正しい死に場所」は、まだ誰にも分からない。

関連記事

    関連記事はありません

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です